貴族の社交イベントロイヤル・アスコット競馬 さて、ロイヤル・アスコット競馬は毎年6月中旬から5日間にわたり開催にされます。 スポーツイベントでも「ロイヤル」と冠されると王室主催を意味し、女王がお出ましになりますから、王室関係者や貴族のドレスコードは正装です。 The Story of the Malakand Field Force (マラカンド野戦軍物語) . イギリスで 6月初旬に行われる エプソム・ダービーについてまとめました。競馬発祥の地 イギリスにおいて、競馬は 元々 中世貴族のスポーツでした。お互いに 賭け… イギリスの競馬(イギリスのけいば)では、イギリス (グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)における競馬について記述する。, 平地競走は3月から11月に開催される。なかでも主要な競走は4月から10月に集中している。, 平地競走はレイティング(単位はポンド; 1ポンド≒0.454 kg)により、Class 1(グループ競走・リステッド競走)、Class 2 (86-100, 91-105 & 96-110)、Class 3 (76-90 & 81-95)、Class 4 (66-80 & 71-85)、Class 5 (56-70 & 61-75)、Class 6 (46-60 & 51-65)、Class 7 (46-50)にクラス分けされている。[3], 4月から5月までの春シーズンは、3歳馬によるクラシック戦が中心である。6月上旬のダービーが終わると、古馬の主要な競走も始まると共に、2歳馬の本格的な競走が解禁される。特に6月中旬に行われるロイヤルアスコット開催はイギリスを代表する競馬開催である。, 夏になると、南部のグッドウッドや中北部のヨーク、ドンカスターなどで大きなイベントが開催される。英国の4カントリーのうち、主要競走は イングランドに集中している。, 秋に行われてきたニューマーケット競馬場のチャンピオンズデー開催は、近年、フランスの凱旋門賞やアメリカ合衆国のブリーダーズカップ、日本のジャパンカップなどの高額競走との競合の結果、大きく再編されてアスコット競馬場で行われることになった。これに伴い、従来チャンピオンズデー開催の一環として行われていた主要2歳戦のミドルパークステークスやデューハーストステークスは、ニューマーケット競馬場で「フューチャーチャンピオンズデー」として1日に複数の2歳戦を行うイベントへと変わった。, ※開催中のなかでも特に主な競走は太字とした。グループ制によるG1競走のほか、G2戦やグループ制度外の競走でも、開催中のメイン競走や賞金がG1戦と同等以上に高額なものを太字としている。, 障害競走は10月から4月に行われる。特に主要な競走は11月から4月に集中している。, Hootenanny, Sunset Glow may target Commonwealth Cup, European Pattern Committee announces changes to the 2017 European Programme / 01 Feb 17, European Pattern Committee announces changes to the 2015 European Programme / 19 Jan 15, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=イギリスの競馬&oldid=77820959, 年間の観客動員数は600万人。観客動員数で見た場合、イギリス国内ではサッカー(900万人)に次ぐ人気を持つスポーツである。, 近代競馬(正式の規則に基づき、専用の施設(競馬場)において行われる競馬)発祥の地として知られる。. 概要. ャンパン、銀の食器など、野外とは信じられないほど本格的なセッティングで行われる。. アーモンドアイのドバイ制覇は鳥肌モンでした。あの瞬間、競馬ファンの多くが「次は凱旋門!」などと色めきだったのでは?実際、日本競馬のレベルは上昇の一途。凱旋門制覇が現実味を帯びて来た今、改めて海外競馬を総ざらい。それぞれのお国柄が出てオモシロ 新貴族院議員任命をちらつかせて貴族院をけん制し、1911年 8月10日に議会法は成立し、庶民院の優越が確立した 。 チャーチルは国王への報告書の中で「長期に及んだ不安な憲法危機が終結した」と報告し … その発祥はイギリスと言われています。 1539年にイギリスで建設された 「チェスター競馬場」が近代競馬発祥の地 そのころは貴族たちが自分の馬を競い合わせて楽しむ、貴族の遊びだったんですね。 16世紀にイングランド その後 The River War: An Historical Account of the Reconquest of the Sudan (河畔の戦争:スーダン侵攻従軍記) , 『A History of the English-Speaking Peoples (英語圏の人々の歴史)』1956-1958年。4巻。第二次大戦前から著しており、英米の連携強化を意識して「英語圏の国民の歴史上の地位と性格を探る」とした著作であり, 『チャーチル―第二次世界大戦の指導者』 山上正太郎、清水書院「センチュリーブックス 人と歴史シリーズ〈西洋〉」、1972年。, 『チャーチルと第二次世界大戦』 山上正太郎、清水書院〈人と思想〉、1984年、新装版2018年。上記の改訂版。, 『祖父チャーチルと私 若き冒険の日々』 ウィンストン・S・チャーチル、佐藤佐智子訳、. 世界最高の競走馬と王侯貴族が集う、競馬界と社交界の一大イベント「ロイヤル・アスコット」。ロンドン郊外で開催されるこのイベントの楽しみ方は、帽子の着用によるドレスアップや、野外とは思えないぜいたくなピクニックなど競馬以外にも多岐にわたる。 子どもの頃からファッションが大好きだったので、中世ヨーロッパを舞台にした映画は、作品そのものより衣装や調度品が楽しみだったりします。ということから、中世ヨーロッパの服装が楽しめる映画を6作選んでみました。 イギリスでは競馬は紳士や貴族の娯楽なのに、どうして日本は依存症や品のない人間の遊びになってしまったのでしょうか? 競馬 天皇賞(秋)で、アーモンドアイが見事G1レース8勝を達成しましたが勝因は… チャーチルも「トーリー・デモクラシー」を意識した選挙戦を展開し、「帝国を維持するには自由な人民、教育ある人民、飢えない人民が必要だ。だからこそ我々は社会政策を支持する」と演説した[118]。だが補欠選挙の最大の争点は社会政策ではなく、国教会に地方税を投入するソールズベリー侯爵の政策に対する賛否だった。自由党はこれを徹底的に批判して選挙戦を有利に展開し、チャーチルも選挙戦後半でつい「私が当選したらこの法案には反対する」という失言をしてしまい、変節者という批判を受けてますます不利な立場に追いやられた[119]。, イギリスの選挙区は1884年の第3次選挙法改正以来、原則として小選挙区になっていたが[120][121]、オールダム選挙区は数少ない2議席選出の大選挙区だった[122]。しかし選挙の結果は、2議席とも自由党がとり、チャーチルは今一歩のところで落選となった[123]。, 南アフリカのボーア人国家トランスヴァール共和国とオレンジ自由国を併合せんと目論むソールズベリー侯爵内閣のジョゼフ・チェンバレン植民地大臣はボーア人に挑発を続け、1899年10月に第2次ボーア戦争が勃発した[124][116]。, チャーチルは再び『モーニング・ポスト』紙の特派員となり、今回は民間ジャーナリストとして戦地に赴いた[125]。戦闘が発生しているナタール植民地へ向かい、11月15日には装甲列車に乗せてもらったが、この列車は途中ボーア人の攻撃を受けて脱線し、チャーチルを含めて乗っていた者らのほとんどが捕虜になった[123][125]。トランスヴァール首都プレトリアの捕虜収容所に収容された。チャーチルは民間人だからすぐに釈放されると思っていたが、英字新聞が「『チャーチル中尉』の勇気ある行動」を称える記事を載せたせいで、釈放されるどころか、下手をすれば民間人に偽装したとして戦争法規違反で銃殺される可能性も出てきた[126]。チャーチルは12月12日夜中に便所の窓から抜け出して収容所を脱走した[125]。元イギリス人の帰化トランスヴァール人の炭鉱技師に数日間匿ってもらった後、貨車に乗ってポルトガル領モザンビークのロレンソ・マルケスのイギリス領事館にたどりついた[127][128]。, この間、新聞報道などで「チャーチルが捕虜収容所を脱走したが、再逮捕されて銃殺された」という噂が流れていたため、チャーチルの生存が判明したことへの反響は大きかった[127][129]。この頃、戦況はレッドヴァース・ブラー将軍率いるイギリス軍が全滅したり、各地でイギリス軍が包囲されたり、イギリス軍が劣勢であった[130]。そのためチャーチルのこの脱走劇は戦意高揚のいい英雄譚となった[131]。, この後、チャーチルはブラー将軍のおかげでケープ植民地で新編成された南アフリカ軽騎兵連隊に中尉階級のまま再入隊できた[132][133]。レディスミスで包囲されるイギリス軍の救援作戦に参加し、ついでフレデリック・ロバーツ卿の指揮下でヨハネスブルクやプレトリアへの侵攻作戦に従軍した[132][133]。1900年6月5日[134]のプレトリア占領の際にはチャーチルは真っ先に自分が収容されていた捕虜収容所に向かい、そこにイギリス国旗を掲げて復讐を果たした[132]。国土が占領されてもボーア人は屈することはなく、ボーア戦争はゲリラ戦争と化していくのだが、チャーチルはプレトリア占領とともにイギリスへ引き上げた[132]。, 帰国後ただちにボーア戦争に関する『ロンドンからレディスミスへ(英語版)』と『ハミルトン将軍の行進(英語版)』の2作を著した[135]。, トランスヴァール共和国首都プレトリアを占領したことによる戦勝ムードの中、首相ソールズベリー侯爵と植民地相チェンバレンは、いま解散総選挙すれば有利な議会状況を作れると踏んで、1900年9月1日に総司令官ホレイショ・キッチナー将軍にトランスヴァール併合宣言を出させるとともに、9月25日に議会を解散した[134]。こうして「カーキ(軍服の色)選挙」と呼ばれた解散総選挙が行われた[123][136]。, チャーチルはこの総選挙に再びオールダム選挙区から保守党公認候補として出馬した。今度の選挙は、捕虜収容所からの脱走劇で名前が売れていたチャーチルが有利であった[123][136]。与党(保守党と自由統一党)の選挙戦を取り仕切っていた植民地大臣チェンバレンもチャーチル応援のため選挙区入りしてくれた[136]。, 選挙結果は自由党候補アルフレッド・エモット男爵が最も得票したものの、チャーチルも第2位の得票を得て、オールダム選挙区2議席を選出するため、チャーチルも次点当選できた[137]。こうしてチャーチルは26歳にして庶民院議員となった[138]。, 総選挙全体の結果も与党保守党と自由統一党が野党自由党とアイルランド国民党(英語版)に134議席差をつけて勝利した[139]。, チャーチルは翌年、自由党のジャスパー・ウィルソン・ジョーンズ議員の娘で、夫が日本の初代首相伊藤博文の法制顧問のピゴットであるマーベルが1896年に設立していた植民地看護協会への支援を表明した[140]。, 保守党の庶民院議員となったチャーチルはイギリス各地で講演会を行い、1900年末にはアメリカや英領カナダでも講演会を開いて金を稼いだ[138]。講演会はかなりの収入にはなったが、アメリカ人の聴衆のうちアイルランド系アメリカ人は反英的な人が多く、それ以外のアメリカ人もボーア人寄りの人が多かった。, そのためチャーチルもボーア戦争に関する厳しい追及を受けた。結局チャーチルも侵略戦争であることは否定できず、「戦争になれば、それが良い戦争だろうが、悪い戦争だろうが、祖国に従うしかない」と弁明した[135]。, 1901年1月にヴィクトリア女王が崩御し、エドワード7世が国王に即位した[141]。チャーチルは、新国王のもとで1901年2月から開会された庶民院に初登院した[142]。, チャーチルの処女演説は、自由党急進派でボーア戦争に反対するデビッド・ロイド・ジョージ議員の激しい反戦論に対抗して、政府を擁護するものだった[143]。ただその演説の中でチャーチルは「私がボーア人だったら、やはり戦場で戦っているだろう」とボーア人を擁護するかのような発言も行い、植民地大臣チェンバレンをいらだたせた[144]。, 1901年5月24日にはフリーメイソンに加入している[145][146][147]。, チャーチルが最初に目指したのは父ランドルフ卿が大蔵大臣として取り組もうとした陸軍予算の削減だった。戦争大臣(陸軍大臣)のシンジョン・ブロドリックが常備軍を現行の二個軍団から三個軍団に増設方針を示したのに対して、チャーチルは1901年5月に反対演説に立ち、「非ヨーロッパの野蛮人を相手にするのは一個軍団で十分だし、ヨーロッパ人を相手にするには三個軍団でも不十分だ。イギリスには世界最強の海軍があればよい」と述べた[148]。この演説は、野党自由党からは喝采が送られたが、保守党執行部は新米議員の造反に驚き、「親孝行と公務を混同してはならない」と批判された[148][149]。これをきっかけにチャーチルは保守党執行部に造反することが増えていく。, 父が「第四党(英語版)」と呼ばれる党執行部に造反する小グループを作っていたのに倣い、首相ソールズベリー侯爵の末子であるヒュー・セシル卿(英語版)らとともに反執行部的小グループを形成しはじめた。やがてこのグループは「フーリガンズ」と「ヒュー・セシル」の名前を組み合わせて、「ヒューリガンズ(英語版)」と呼ばれるようになった[150]。, チャーチルは保守党左派と自由党右派(自由帝国主義者)を一つにまとめ、政界再編のきっかけとすることを考えていたという[151]。, 1902年7月11日、長らく首相を務めてきたソールズベリー侯爵が病により退任し、代わってアーサー・バルフォアが大命を受けた。この頃からボーア戦争が客観的に評価されるようになったことで世論は政権に批判的になっていき、政権与党内の結束力も乱れていった。こうした中で関税問題をめぐって政権与党内の分裂が始まった[152]。第二次ボーア戦争は1902年5月に講和条約が結ばれて正式に終結していたが、予想外の長期戦は予想外の膨大な戦費をもたらし、1900年以降イギリス財政が赤字となった。それを補うために各種増税が行われ、その一環で穀物関税再導入も暫定的かつ少額でという条件で実施された[153]。チェンバレンは大英帝国内に帝国特恵関税制度を導入する関税改革を行うべきと主張するようになった。これは帝国外に対する関税を永続させよという保護貿易論であった[154][155]。, チェンバレンの保護貿易論をめぐってイギリス世論は二分された。貧しい庶民はパンの値段が上がることに反対し、保護貿易には反対だった[156]。金融資本家も資本の流動性が悪くなるとして保護貿易には反対し[157]、綿工業資本家も自由貿易によって利益をあげていたので保護貿易には反対だった[156][158]。一方、工業資本家(廉価なドイツ工業製品を恐れていた)や地主(伝統的に保護貿易主義)は保護貿易を歓迎し、チェンバレンを支持した[159][160]。この論争は政界にも大きな影響を及ぼし、第二次ボーア戦争の評価をめぐって小英国主義派と自由帝国主義派に分裂していた野党自由党が自由貿易支持・反チェンバレンのもとに団結した。一方政権与党は自由貿易派と保護貿易派に分裂した[157][161]。, チャーチルやヒュー・セシル卿ら「ヒューリガンズ」は自由貿易を支持し、チェンバレン批判を行った[161]。自由貿易を支持することは父ランドルフ卿の魂を継承することでもあったし[162]、またチャーチルの選挙区であるオールダム選挙区の主要産業である木綿産業を満足させる効果もあった[158]。1903年5月、チェンバレンが関税改革案を明確に提示してきたのを受けてチャーチルはバルフォア首相に対して「首相がチェンバレン植民地相の保護貿易論を明確に否定する声明を出されないのであれば、私としては党を変える必要が出てきます」という内容の手紙を送った[158]。さらに同年11月にはチェンバレンの本拠であるバーミンガムに乗り込んで、チェンバレンの保護貿易論を批判するという挑発行動をとった[163]。, チャーチルは自由貿易支持を明確にしない保守党を見限り、自由党への移籍を希望するようになった。世論の自由党と自由貿易支持は圧倒的であり、自由党としては保守党内自由貿易派と手を結ぶ必要がほとんどなかったため移籍は容易ではなかったが、1904年5月にマンチェスター・ノース・ウェスト選挙区からなら自由党候補としての出馬を認めると自由党から打診を受けた[164]。この選挙区は保守党が強く、自由党は1900年の解散総選挙の際にも対立候補を立てなかった選挙区だったが、元保守党議員のチャーチルなら当選の見込みもあると自由党執行部は考えた[164]。こうしてチャーチルは自由党に移った[165]。この移籍について彼は「我が父に酷い仕打ちをした保守党から離れる機会に恵まれて本当にうれしい」と述べている[162]。, 以降チャーチルはバルフォア政権や保守党に激しい攻撃を加えるようになった[166]。並行して父ランドルフ卿の伝記の執筆を開始した。父に関する資料を徹底的に集め、元首相で自由党自由帝国主義派の領袖ローズベリー伯爵や敵対する元植民地大臣チェンバレンからも協力してもらった[167]。1905年末に完成したこの伝記は、ランドルフ卿を美化し、またチャーチル自身に我田引水を図ろうという意図も見えるが、ことさらバルフォア首相やチェンバレンを批判的に扱うような露骨なことはしなかったので、好評を得た[168][169]。, 1905年12月、関税問題で閣内不一致となったバルフォア内閣は総辞職し、自由党党首ヘンリー・キャンベル=バナマンに大命降下があり、自由党政権が発足した[162][168][170]。この内閣にチャーチルは自ら希望して植民地省政務次官(英語版)として参加した[162][171]。, キャンベル=バナマンは少数与党政権の状態から脱するべく、1906年初頭にも解散総選挙に打って出た。この選挙でマンチェスター・ノース・ウェスト選挙区から出馬したチャーチルは保守党候補からの「裏切り者」との批判に対して「私は保守党にいた時、バカなことをたくさん言いました。そしてこれ以上バカなことを言いたくなかったので自由党へ移ったのです」と反論して笑いをとったり自由貿易支持を訴えて支持を広げて当選した[172][169]。, この総選挙は全国的に自由党の圧勝に終わった選挙であり、改選前に401議席をもっていた保守党と自由統一党は157議席に激減した。自由党は一気に377議席を獲得し、自由党の友党アイルランド国民党も83議席を獲得した[173]。自由党としては1886年以来の安定政権を作ることが可能となった選挙であった[174]。最大の勝因は自由党候補たちの自由貿易支持の主張である。前述したように、庶民は食品の値段が上がる保護貿易には断固反対だった。チャーチルも「この選挙ははじめから自由党有利だった」と分析している[175]。, 植民地省政務次官となったチャーチルは、まず全土がイギリス領となった南アフリカの問題にあたった。前保守党政権はボーア人を強圧的支配下に置こうとしたが、チャーチルはボーア人とイギリス人が協力して成り立つ自治政府の樹立を目指し英語とオランダ語の併用、またボーア人・イギリス人問わず100ポンド以上の財産を持つ成年男子に選挙権を認めた一方で先住民の黒人は無視され人種隔離政策が推進された[176]。, また、南アフリカでは1904年2月から1906年11月までの間に6万3000人もの中国人移民労働者が清から南アフリカに鉱山労働者として輸送されてきていたが[177]、これはイギリスが禁止している「奴隷貿易」に該当するのではという問題があった。1906年総選挙でも争点になって、自由党候補の一部が中国人奴隷が虐待されている姿を描いたポスターを使用していた[178]。チャーチルは、はじめ「中国人労働者たちは自発的な雇用契約で南アフリカの鉱山で働いている。極端に解釈したとしても奴隷には分類できない。」と答弁していた[179][注釈 6]。またケープ植民地総督アルフレッド・ミルナーが中国人労働者に対する鞭打ちを許可したことが判明し批判動議が提出されチャーチルは自由党議員を結束させ否決に成功したが、批判熱は収まらず、さらにつめ込まれた中国人たちが同性愛をしている可能性について疑惑も出され、紛糾した[179]。チャーチルは「中国人を顔だけで稚児(カタマイト)かどうか見分けるのは難しい」と答弁したが、この「稚児」という言葉に議会では議事録で別の単語で記入されたり、貴婦人が退席するなど異常な反応をとった[179]。結局植民地省は1906年11月に中国人労働者の輸入を停止させた[181]。その後、この問題の処理は1907年より設置されたトランスヴァール植民地自治政府(英語版)に委ねられることになり、同政府の決定で中国人労働者の新規移民は禁止され、移民が認められなかった者は契約期間満了次第、清へ強制送還された[182]。, 1907年にチャーチルは植民地大臣エルギン伯爵の許可を得てイギリス領東アフリカへ視察旅行に出て、マルタ島、キプロス島、スエズ運河を通過して10月にモンバサに到着し、ナイロビからウガンダへ入り、ヴィクトリア湖とアルバート湖を繋ぐ鉄道建設予定地を通った[183][184]。当時の東アフリカは完全にイギリスの支配下にあり、現地のイギリス人たちは現地民に対して絶対的支配者としてふるまっていた。それを見たチャーチルはそうした統治でも平和を保つことができるイギリスの支配の偉大さを再確認したという[185]。当時11歳のブガンダ王ダウディ・チュワ2世の引見も受け、チャーチルはその気品に気後れして「イエス」「ノー」しか答えられなかったという。王はチャーチルに「戦の踊り」を披露してくれた。先住民たちはチャーチルを紳士的に歓迎し、チャーチルの方もアフリカ人が気に入ったようだった[186]。, チャーチルはアフリカの風景の美しさに魅了され、『ストランド・マガジン』に寄稿した『アフリカ旅行記』の中でも風景をよく描写している[187]。狩猟も楽しみ、サイやイボイノシシを仕留めた。ライオンも狙ったが、成功しなかったという[185]。また鉄道が完成すればウガンダはランカシャーの綿産業の原料供給地となるが、開発が進むとともに白人やインド人、黒人との間に摩擦が増えるという懸念も書いている[188]。, 1907年、「戦の踊り」を見学するチャーチルとブガンダ王ダウディ・チュワ2世(英語版), 1908年1月にイギリスに帰国した[189]。この年の4月にキャンベル=バナマン首相が退任し、大蔵大臣ハーバート・ヘンリー・アスキスに大命降下があり、アスキス内閣が成立した[190]。, この内閣においてチャーチルは通商大臣として入閣した。これは通商大臣ロイド・ジョージがアスキスの首相就任で空いた大蔵大臣に就任したことによる玉突き人事だった[191][192]。, 当時のイギリスには入閣する際に議員辞職して再選挙しなければならないという法律があったため[注釈 7]、チャーチルも議員辞職し、それに伴うマンチェスター・ノース・ウェスト選挙区の補欠選挙に出馬した。前回の総選挙と異なり、今回は自由党に風は吹いておらず、しかも元来保守党が強い選挙区であるから、チャーチルは苦しい選挙戦を強いられた。保守党も「裏切り者」チャーチルを落とすために全力をあげた結果、チャーチルは僅差で落選した[194][195]。, しかしチャーチルは知名度が高かったので彼に出馬要請する選挙区は他にもあった。スコットランドダンディー選挙区で前職議員の叙爵(貴族院入り)に伴う補欠選挙が行われることになり、同選挙区の自由党組織から出馬を要請されたチャーチルはこれを承諾した。この補欠選挙にはチャーチルの他に保守党候補、労働党候補、禁酒主義者のエドウィン・スクリムジャー(英語版)の3候補が出馬していた[196]。, ダンディー選挙区は2議席選出する大選挙区だった。前回の総選挙では自由党と労働党が議席を分け合ったため、この選挙区の自由党員には労働党のせいで1議席しか取れなかったと恨む者が多く、チャーチルも自由党票を固めるため労働党批判を中心的に行った[196]。その結果、チャーチルはこの選挙で初めて社会主義への本格的な敵意を露わにし、「社会主義は裕福な者を引きずり落とす。自由主義は貧困者を持ち上げる。」「社会主義は資本を攻撃する。自由主義は独占を攻撃する」「社会主義は支配を高める。自由主義は人を高める」といった対比型の社会主義攻撃を展開した。この演説が功を奏し、チャーチルは大勝した[197]。, 1908年9月、33歳の時にクレメンティーン・ホージアーと結婚した[198][199]。彼女は礼儀作法はしっかりしていたが、財産は特になく、フランス語の家庭教師をして生計を立てている女性だった。父親はサー・ヘンリー・ホージアー(Sir Henry Montague Hozier)という軍人であり、母親はデイヴィッド・オギルヴィ (第10代エアリー伯爵)(英語版)の娘であった[200]。, 二人は1908年3月の晩餐会で知り合い、チャーチルの方が最初に彼女に惹かれたという。チャーチルは彼女に自分の著作『ランドルフ・チャーチル卿』を読んだか聞いてみたが、読んでいないようだったので本を送ると約束したが、チャーチルは本を送り忘れた。しかし後日再会した時にクレメンティーンもチャーチルに惹かれるようになっていた[201][200]。8月に従兄弟マールバラ公のブレナム宮に彼女を招いた際にチャーチルの方からプロポーズし、受け入れられた[199][200]。結婚式はウェストミンスター大寺院で行われた[200]。, チャーチルが商務大臣となった頃のイギリスの経済状況は悪かった。1907年後半から不況が押し寄せ、1907年に3.7%だった失業率は、翌1908年には7.8%に跳ね上がっていた[202]。労働党の「労働権の確立」を訴える運動が盛り上がり[203]、他方保守党の関税改革派も「関税が国民の仕事を守る」と再攻勢をかけた[202]。自由党としては中産階級の支持を失わずに労働者階級に支持を拡大させて立て直しを図りたいところであり、それが本来自由放任主義の立場である自由党が社会政策を実施する背景となった[204]。チャーチル自身も1906年総選挙の遊説の際にスラム街を見て、社会政策の必要性を痛感した[205]。, アスキス内閣によって実施された社会政策には「老齢年金法」や「国民保険法」(健康保険と失業保険)、「炭鉱夫8時間労働制」、「職業紹介所」などがある[206]。このうちチャーチルが商務大臣として主導したのが「職業紹介所」と「失業保険制度」である[207][208]。, 1909年秋にドイツを訪問し陸軍演習と職業紹介所を視察した。当時ドイツも失業者を抱えていたが、労働者の多くが失業保険に入っていることに感心したチャーチルはウィリアム・ベヴァリッジとともに職業紹介所設置法を成立させ、これまで地方公共団体が設置運営していた職業紹介所を中央政府が直接設置運営することで全国に大幅に増やすことが可能となった[209][210][206]。この法律は国民から歓迎され、チャーチルは至るところで「親愛なるチャーチル(Good Old Churcill)」の歓声を受けた[211]。しかし職業紹介所の設置は労働の市場化を押し進め、資本家が「最適の労働者」を見つけやすくなるため[211][212]、労働組合も「労働組合の規定で定める賃金以下で労働者がかき集められる危険性がある」と反対し、労働党も「失業保険制度もない、失業対策事業もしない、労働者の再教育もしない、ただ職業紹介所を置くだけというこの法律では、労働権が確立したなどとは到底言えない」と批判した[210]。, チャーチルは1909年に労働党議員の要請を受け入れて、失業保険法案(Unemployment insurance bill)を議会に提出するも、この法案は貴族院で廃案にされた[213]。その結果、労働党の「労働権」確立を求める運動は強まっていった[214]。, イギリスの国際的地位は1870年代以降、後発資本主義国の発展に押されて低下の一途をたどっていた。後発資本主義国の中でもとりわけドイツがイギリスに急追していた。ドイツ資本主義の急速な発展を背景にして、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は1890年代後半から「世界政策(Weltpolitik)」を掲げて海軍力を増強して帝国主義外交に乗り出し、世界中でイギリス資本主義を脅かすようになった[215]。これに対抗したイギリスの海軍増強は保守党政権時代に開始されたが、キャンベル=バナマン内閣は保守党の海軍増強計画を若干縮小し、海軍の小増強(大型軍艦3艦建艦)を目指した[216]。1908年2月にドイツ帝国議会で海軍法修正法が可決し、ドイツ海軍は毎年弩級戦艦を3艦、巡洋艦を1艦ずつ建艦していき、1917年までに弩級戦艦と大型巡洋艦合わせて58艦の保有を目指した[217]。これを受けてイギリスでも野党保守党やイギリス海軍軍部を中心に海軍増強が叫ばれるようになった[218]。, アスキス内閣発足後、自由帝国主義派と急進派の閣僚の間で海軍増強論争が起こった[219]。海軍大臣レジナルド・マッケナや外務大臣エドワード・グレイら自由帝国主義閣僚は最低でも弩級戦艦4艦、情勢次第では最大6艦の建艦を主張した。これに対して大蔵大臣ロイド・ジョージや通商大臣チャーチルら急進派閣僚は海軍増強より社会保障費の財源確保を優先させるべきと主張した[218]。チャーチルは1908年8月15日のスウォンジでの演説で「ドイツには戦う理由も、戦って得る利益も、戦う場所もない」としてドイツ脅威論を一蹴している[220]。ウィンザー城管理長官代理であるレジナルド・ベレット (第2代イーシャ子爵)は「チャーチルは信念や主義で海軍増強に反対しているわけではなく、自由党急進派を自分が指導しようという野心から反対している」と分析した[221]。, しかしグレイ外相が「海軍増強が受け入れられないなら辞職する」と脅迫し、また1908年に訪独したロイド・ジョージがドイツ脅威論をある程度認めるようになったことでロイド・ジョージとチャーチルは1909年と1910年の2年間に4艦の弩級戦艦の建艦を認めるに至り、これにより閣内対立は一時収束した[220]。, しかし1909年1月から2月の閣議でマッケナ海軍大臣ら自由帝国主義派閣僚が6艦の建艦を要求し、4艦の建艦に止めようとするロイド・ジョージやチャーチルら急進派閣僚と再び対立を深め、海軍増強論争が再燃した[222]。ロイド・ジョージとチャーチルは「もし4隻以上の弩級戦艦を建艦するつもりなら、辞職する」とアスキス首相を脅迫した[223]。結局アスキス首相は1909年2月24日の閣議で折衷案をとり、1909年の財政年度にまず4艦、情勢次第で1910年にはさらに4艦の弩級戦艦を建艦するとした。これにより自由帝国主義派と急進派の双方に一定の満足を与え、この時も閣内対立を収束させることができた[224]。, 大蔵大臣ロイド・ジョージは1909年4月に「人民予算(英語版)」を議会に提出した。この予算はドイツとの建艦競争や社会保障費によって財政支出が膨大になったため、財政の均衡を図るために提出されたものだった[225]。「人民予算」の増税案は所得税率の引き上げ、相続税の引き上げと累進課税性の強化、そして土地課税制度導入など富裕層から税金を取り立てるものだった[226][227]。しかし野党保守党は「富裕層から取るのではなく、関税改革によって歳入増加を図るべき」と主張して人民予算に反対した[228]。, この論争でイギリス社会は二分された。チャーチルは「人民予算」を支持する者たちを糾合して「予算賛成同盟(Budget League)」を結成した。一方保守党のウォルター・ロングらはこれに対抗して「予算反対同盟」を結成した。世論の支持はチャーチルの「予算賛成同盟」にあった[226][229]。ただロイド=ジョージによればチャーチルは従兄弟のマールバラ公から圧力を受けており、「人民予算」にいまいち熱心ではなかったという[230]。, 「人民予算」は1909年11月4日に庶民院を通過したが、保守党・地主貴族が牛耳る貴族院から「土地の国有化を狙う社会主義予算」として徹底批判を受け、11月30日に圧倒的大差で否決された。これを受けてアスキス首相は議会を解散した[231][232]。, 1910年1月に行われた解散総選挙でチャーチルは再びスコットランドのダンディー選挙区から出馬したが、スコットランドでは地主貴族や保守党に対する反発が強かったので当選は安泰だった。そのため選挙戦中、チャーチルは自分の選挙区よりも他の選挙区の自由党候補の応援演説に駆け回った[233]。全国的には自由党は苦戦を強いられ、選挙の結果は、自由党275議席、保守党273議席、アイルランド国民党82議席、労働党40議席となった。前回比で自由党は104議席も失った[234]。人民予算については自由党を支持するが、海軍増強問題では大増強を訴える保守党を支持するという者が多かったのが原因だった[235]。この選挙で自由党は過半数を失い、以降アイルランド国民党と労働党の閣外協力を得て政権を維持することとなった[233]。この両党の支持を得て「人民予算」は可決成立した[236]。, この選挙後、チャーチルは重要閣僚職である内務大臣に就任した。35歳での内務大臣就任であり、これは歴代内務大臣で第2位の若さである(1位はサー・ロバート・ピール准男爵の33歳)[233]。, キャスティング・ボートを握るアイルランド国民党はアイルランド自治法案成立の妨げになっている貴族院の拒否権を縮小する貴族院改革を主張し[237]、労働党党首ケア・ハーディはさらに貴族院廃止を主張した[238]。自由党も政権維持のため貴族院改革に乗り出さねばならなくなった。1910年4月14日に「議会法案」を議会に提出した。これは財政法案に関する貴族院の拒否権を廃止し、また財政法案以外の法案についても貴族院が反対しても庶民院が3回可決させた場合は法律となるという内容だった[239]。チャーチルは庶民院におけるこの法案の審議を任された[240]。審議最中の5月6日に国王エドワード7世が崩御し、ジョージ5世が新国王に即位した。政界に「新王をいきなり政治的危機に晒してはいけない」という空気が広まり、自由党、保守党双方の話し合いの場が設けられた(「憲法会議(Constitutional conference)」)[241][242]。, この時の融和ムードを利用してロイド・ジョージは自由党と保守党の中の「極端分子」を排除して大連立政権を作ることさえ計画し、バルフォアら保守党幹部に折衝を図った[243]。チャーチルもこの計画に乗り気であり[244]、保守党内の知り合いの議員に折衝を図ったが、保守党のチャーチルへの嫌悪感は強く、ロイド・ジョージの大連立構想にとってチャーチルは邪魔な「極端分子」に該当したようである[240]。, 結局大連立構想も「憲法会議」も決裂し、首相アスキスは国王から「貴族院改革を問う解散総選挙に勝利したならば国王大権で貴族院改革に賛成する新貴族院議員を任命する」との確約を得たのち、1910年11月16日に議会を解散した[241][245]。こうしてこの年二度目の総選挙が行われ、自由党は貴族院改革、保守党は関税改革を争点にして選挙戦を戦った[246]。チャーチルは前回選挙と同様、自分の選挙区より他の選挙区の自由党候補の応援に駆け回り、貴族の特権をはく奪すべきことや、生活費の上昇をもたらす保守党の関税改革を批判する演説を行った[247]。総選挙の結果は前回とほとんど変わらず、自由党272議席、保守党・自由統一党272議席、アイルランド国民党84議席、労働党42議席をそれぞれ獲得した[248]。しかし自由党とアイルランド国民党をあわせれば過半数を得たことから、アスキス首相は議会法案を再度提出。新貴族院議員任命をちらつかせて貴族院をけん制し、1911年8月10日に議会法は成立し、庶民院の優越が確立した[249][250]。チャーチルは国王への報告書の中で「長期に及んだ不安な憲法危機が終結した」と報告している[251]。, この議会法制定により蔵相ロイド・ジョージは国民保険法を制定させることができた[252]。この法律は第1部と第2部に分かれており、第1部は賃金労働者のほとんどを加入対象とする健康保険制度、第2部は建設や造船関係の業種の労働者を対象とした失業保険制度を定めたものであり、廃案になった先のチャーチルの失業保険法を再導入したものだった[252][253]。失業保険は一部の職種の労働者に限定されているが、これは実験的導入であるためであり、成功した場合には他の業種の労働者にも拡大させるとしていた[253]。, チャーチルは商務大臣だった頃から引き続いて失業保険問題を担当し、同法第2部の具体的制度の構築にあたった[238][208]。ロイド・ジョージが主導する健康保険の方は既存の民間保険団体や医療関係者の既得権とぶつかり合い、大揉めになったが、チャーチルの主導する失業保険の方はほとんど抵抗を受けなかったという。資本家は自分たちが必要としない労働者を失業保険が面倒を見てくれるということで基本的に歓迎し、労働組合も失業した組合員を持てあましていたため、反対の声は小さかったのである[254], 1910年11月16日、ロンドンのイースト・エンドハウンズディッチの宝石店で警官三名の殺害を伴った強盗事件が発生した[255]。チャーチルは殉職した警察官たちの国葬を執り行った。捜査を進めると、ロシアから亡命してきたレット人の反帝政革命家グループの犯行である可能性が濃厚となった。1911年1月、グループの隠れ家がシドニー街にあることが判明し、警察が踏み込もうとしたが、銃で応戦され、シドニー街の戦いと呼ばれる銃撃戦が勃発し[256]、チャーチルは現場で警官隊の直接指揮を執った[257][258][注釈 8]。やがてその家から火の手が上がると、チャーチルは消火しようとする消防隊を押しとどめて、その家が燃え尽きるまで待機を続けた。家が焼け落ちた後、警察がその跡を調べたが、犯人の焼死体は2体しか出ず、他の者がどうなったかは不明だった[259]。この事件によりチャーチルの脳裏には社会主義への恐怖が焼きついたという[260]。社会政策に取り組み、軍拡に反対したチャーチルの急進性もこの頃から弱まっていくことになる[261], 1910年11月8日に南ウェールズロンダ渓谷の炭鉱労働者たちがトニパンディの暴動(英語版)を起こした。チャーチルは、戦争大臣リチャード・ホールデンを通じてネヴィル・マックレディ将軍率いる軍隊や警察部隊を派遣し、炭鉱夫労働組合指導者に対して「軍事力を行使することも躊躇しない」と恫喝した[262][263][264]。この軍事的恫喝のおかげで炭鉱夫2人の殺害だけでスト鎮圧に成功した[263]。チャーチルは個人的には炭鉱夫たちに同情していたが、内務大臣として法令の遵守を第一とし、また挑戦を受ければ退却しない性格と相まって決断を下した[257][263]。それでも鎮圧軍を派遣するにあたっては軍隊に対し、「軍は炭鉱経営者たちの個人的使用人ではない」ことや「労働争議に介入したり、スト破りの役割を果たしてはならない」ことを訓令した[264]。この事件以降チャーチルは労働者の激しい憎悪の対象となり、「トニパンディを忘れるな」は労働運動の合言葉になった[262]。労働党もチャーチルやロイド=ジョージら「自由党急進派」への不信を高めた[265]。, 国民保険法はこうした労働者の不満を抑えるためのものであったが、それもむなしく、1911年6月にはイギリス各港で海運労働者の大規模ストライキが勃発し、各港は海運機能が麻痺し、革命前夜の空気さえ漂った。一時下火になるも8月には鉄道労働者が海運労働者と連携したストライキを起こした[266]。同時期の1911年7月にフランスが植民地化を推し進めているモロッコ・アガディール港にドイツ軍艦が派遣されるという第二次モロッコ事件が勃発し、独仏戦争の危機が発生した。アスキス内閣のエドワード・グレイ外相はドイツがこの港を獲得したら英国本国と英領南アフリカや南米との通商海路が危険に晒されるとしてドイツの行動に断固反対の立場をとった。アスキス首相はこの事件を機に対独戦争準備を急がせた[267]。戦争準備が決定された中での大ストライキであり、政府としては緊急に処理しなければならなかった[268]。, チャーチルは弾圧路線を変更するつもりはなく、あちこちに軍隊を派遣してはストライキ弾圧を行った。労働者たちは軍隊派遣に強く反発し、むしろ軍隊が派遣された場所で積極的な暴動ストライキが発生した。ロンドン、リヴァプール、ラネリーでは軍隊の発砲で多数の労働者が死傷する事態となった[269]。ここに至ってチャーチルも自分の弾圧路線が誤りであったことを認めざるをえなくなった。ルーシー・マスターマンはこの頃のチャーチルについて「打ちのめされたようだった」と語っている[270]。結局このストライキはロイド・ジョージが経営者を回ってドイツとの戦争が不可避かつ間近であると説得し、労働者に対して融和的態度を取らせたことで収束に向かった[270]。労働党議員ラムゼイ・マクドナルドは「この危機に際して、チャーチル内務大臣が、民衆操作に通じていたなら、市民的自由の意味を理解していたなら、内相の権限を機能的に行使できる能力があったなら、こんな大混乱には陥らなかっただろう」と語っている[270]。, チャーチルは1911年8月15日の庶民院で「軍隊は国王陛下の物であるから、本来は労働争議にも干渉できる。しかし労働争議の仲裁は商務省に任せられているので、軍隊は労働争議が犯罪を伴った場合のみ治安維持目的で出動するべきだ」と述べ、自分が軍隊を出動させたのはあくまで治安維持のためであったことを強弁した[271]。だが労働組合側にこのような弁を信じる者はなく、労働組合のチャーチルへの嫌悪感は決定的となった。このことは労働者層に支持を拡大したいアスキス内閣にとってアキレス腱となった[271]。, 内閣の帝国防衛委員会の席上、戦争大臣ホールデン子爵が海軍にも陸軍の帝国参謀本部に相当する組織を設置すべきであると主張した。レジナルド・マッケナ海軍大臣は反対したが、委員のほとんどや首相も賛同したことで、マッケナは辞任した[272]。1911年10月23日、後任としてチャーチルが海軍大臣に就任した。閣僚としての地位は内相の方が上だが、ドイツとの開戦が迫っている情勢だけにこの閣僚職への就任は責任重大であった[273]。チャーチルは内務大臣として海軍火薬庫に警備を派遣するなどドイツとの戦争準備に尽力し、また帝国防衛委員会の会合にも積極的に参加し海軍の軍備や組織の問題に強い関心を持っており、その熱意をアスキスに認められていた[273]。またアスキスはチャーチルを急進派から切り離すために就任を命じたともされる[274]。, なお、海軍大臣在任中、自身が尊敬していたオリバー・クロムウェルの名前を戦艦につけようと、国王ジョージ5世に何度か提案しているが、「国王を処刑した人物の名前を戦艦につけることはできない」と退けられている[275]。, チャーチルは優生学の支持者として、1913年の精神薄弱者法(英語版)の起草に参加した。法律は最終的に知的障害者の強制収容を可能にするものとして可決したが、チャーチルが事前に主張した強制不妊手術は否決された[276]。, 海軍大臣となったチャーチルは、バッテンベルク家のルイス公子を第一海軍卿に任じつつ、70歳過ぎですでに引退していたジョン・アーバスノット・フィッシャー元提督を顧問として重用した[277][278]、フィッシャーの提案を受け入れながら、海軍軍備増強を進めた[279]。, 13半インチ砲にかわって15インチ砲を導入し、クイーン・エリザベス級戦艦に搭載した[280]。またフィッシャーは装甲よりスピード重視の軍艦製造を目指したため、燃料を石炭から重油に転換する必要性に迫られ、フィッシャーが委員長を務める王立委員会のもとにアングロ=ペルシャン・オイル・カンパニー(英語版)を創設し、19世紀以来イギリスが握っている中東の石油利権をより強力に掌握した[280][281][278]。また海軍航空隊の創設と育成にもあたったためチャーチルを「イギリス空軍の父」とする主張もある。チャーチル本人によれば「フライト(flight)」や「シープレイン(sea plain)」などの航空用語を作ったのは彼なのだという[282]。, 一方首相アスキスは建艦競争の緩和を目指し、1912年1月に戦争大臣ホールデン子爵を使者としてドイツに派遣し、「ドイツはイギリス海軍の優位を認めるべき。ドイツがこれ以上海軍増強を行わないなら、代わりにイギリスはドイツが植民地拡大するのを邪魔しない」という交渉をヴィルヘルム2世にもちかけた(ホールデン使節(英語版))[283]。このホールデン子爵訪独中の1912年2月9日、チャーチルが「イギリスにとって海軍は必需品、しかしドイツにとって海軍は贅沢品である。」という演説を行った[284][283][285]。チャーチルとしてはホールデン子爵をサポートするつもりでこの演説を行ったのだが、かえってヴィルヘルム2世の心証を悪くし、ホールデン子爵の提案はドイツ海軍力を一方的に封じ込めようというイギリスの陰謀であるとして拒絶された[286]。, チャーチルは、1912年春にポーランド沖で150隻の軍艦と王室ヨットを動員した観艦式を開催し、ドイツを威圧した[287]。さらに王室船「エンチャントレス」号(HMS Enchantress)で地中海の視察旅行を行った。チャーチルは第一次世界大戦前の海相在任期間のうち実に4分の1をこの船の上で過ごしている[287]。古代ギリシャ劇場跡を訪問した際にチャーチルはシチリア遠征を思い起こし、ドイツ軍はアテナイ軍と同じ運命をたどるだろうと思い込むようになったという[287]。, 海軍予算の面では1912年は巨額を要求したが、1913年は控えめだった[288]。1913年3月26日には、英独両国の建艦競争を1年間休戦するという「海軍休日案」をドイツに提案しているが、相手にされなかった[288][286]。そのため1914年1月には海軍予算の大幅増額を要求し、軍事費拡大に慎重な急進派閣僚ロイド・ジョージと対立を深めた[288][289][290]。結局この論争はアスキス首相の決定によりチャーチルの言い分が認められた[288][290]。3月の庶民院でチャーチルがこの海軍予算案を発表した際には、与党自由党からではなく、海軍増強を主張していた野党保守党から喝采されるという珍現象が発生した[291]。, 1912年から1914年にかけてアイルランド自治法をめぐって議会が紛糾する中、アイルランド北部アルスターのプロテスタントや保守党員たちは「アルスター義勇軍」を結成し、アイルランド自治にアルスターが含まれることに抵抗した。これに対抗してカトリックが大多数の南アイルランドもアイルランド義勇軍を結成した。この両軍が睨みあう状態となり、アイルランドは内戦寸前の状態に陥った。アイルランドにはカトリックが多く、カトリックはアイルランド自治を求める者が多いが、北部アイルランドのアルスターは複雑だった。アルスターは9つの州からなるが、プロテスタントが多数な州とカトリックが多数派な州、両方が混在している州があった[292]。またアルスターはイングランド本国と経済的に結びつきが強く、アイルランドの中では唯一産業革命を経た地域であったため、アイルランド自治にあたってここを失うことはカトリック・アイルランド自治派にとってもプロテスタント・イギリス派にとっても耐えがたいことだった[293]。, チャーチルは1914年3月19日に独断で艦隊をアラン島に出動させてアルスター義勇軍を牽制した[290]。チャーチルの父ランドルフ卿はかつて「アルスターは戦うだろう。そしてアルスターは正しいだろう」と述べたことのある親アルスター派であり、チャーチルもそれに影響されており、そのため逆にチャーチルこそがアルスターを牽制する役にふさわしいと考えられたのである[294]。, アイルランド自治法案は1914年5月26日に3度目の庶民院可決が成り、議会法に基づき、貴族院の賛否を問わず同法案は可決されることになった。しかし内乱誘発を恐れたアスキス首相は、アルスターを6年間自治の対象から除外する修正案も提出した。その修正案について各方面との交渉中に第一次世界大戦が勃発し、保守党党首アンドルー・ボナー・ローとの交渉の結果、アイルランド自治法案は棚上げすることになった。内乱の危機は世界大戦のおかげで回避されたのだった[295][296][297]。, 1914年6月のサラエボ事件を機に7月終わりから8月初めにかけてドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国対ロシア、フランスの第一次世界大戦が勃発した。イギリスはロシアともフランスとも正式な軍事同盟は結んでいなかったので参戦義務はなく、閣内でも参戦すべきか否か意見が分かれ、とりわけロイド=ジョージが参戦に反対した。しかしチャーチルは、熱烈に参戦を希望し、ドイツがロシアに宣戦布告した8月1日には独断で海軍動員令を出した[298]。自由党以外では保守党とアイルランド国民党が参戦を支持していた[299]。チャーチルはもし戦争賛成・反対で内閣や自由党が分裂するなら、反戦派は容赦なく追放し、保守党と連立政権を作るべきことを主張した[300]。, 8月2日にドイツ軍がベルギーの中立を犯して同国に侵攻を計画していることが判明し、これを機にロイド=ジョージも参戦派に転じたことで、アスキス内閣は対独参戦を決定した。参戦反対派のジョン・モーリー (初代ブラックバーン子爵)枢密院議長によればロイド=ジョージの転向はチャーチルの影響であったという[301]。8月4日にイギリス政府はドイツにベルギーからの撤退を求める最後通牒を発したが、午後11時までの期限になってもドイツからの返信はなく、同時刻から参戦を決定する閣議が首相官邸で開催されたが、アスキス首相夫人マーゴットによると、この時チャーチルは幸せそうな顔つきで大股で歩いて閣議室へ向かっていたという[300][301]。この頃の妻への手紙の中でチャーチルは「全てが破滅と崩壊に向かっているが、私は興味津津で、調子がよく、幸せです。恐ろしいことかもしれないが、戦争の準備は私には魅力的です。それでも私は、平和を守るために最善を尽くすつもりです」と書いている[299]。, 英独の最初の海戦は8月5日に王立海軍の軽巡洋艦「アンフィオン」がドイツ帝国海軍機雷敷設艦「ケーニギン・ルイゼ」を撃沈するも機雷に接触し、「アンフィオン」も沈没したという小規模戦闘だった。以降、このような小規模戦闘が繰り返されることになり、両国とも主力艦隊は軍港に温存して決戦を避けた[302]。, チャーチルは艦隊を英仏海峡から北海へ移し、陸軍を安全に大陸へ輸送することに貢献した[303]。また海兵部隊をダンケルクに送りこみ、ここに海軍航空部隊の基地を置き、ドイツ軍の爆撃飛行船ツェッペリンの英本土飛来を阻止しようとした。またこの飛行場を防衛するため、陸軍兵器の開発にも携わり、陸上戦艦委員会を創設して装甲自動車や無限軌道自動車の開発を行い、後に戦車を生み出した[304]。, 10月初めには予備水兵から成る師団をドイツ軍に包囲されるベルギーのアントワープ防衛に送り、かつ彼自身もアントワープに入り、防衛戦の直接指揮を執った[305][306][307]。しかし結局アントワープ防衛には失敗し、イギリス軍のうち二個大隊がドイツ軍の捕虜となった[308]。チャーチルは何の戦果もあげられずに、アントワープ陥落の4日前の10月6日にイギリス本国へ逃げ戻ってきた。これによりチャーチルはマスコミや保守党から「無駄な犠牲を出した愚かな作戦」「ヒーロー気取り」と激しい批判を受けた[305][309][310]。チャーチルは、開戦以来マスコミの評判が悪かった第一海軍卿ルイス王子(ドイツ人の血をひいていた)にアントワープ事件の責任を取らせて辞職させ、その後任としてフィッシャーを第一海軍卿に任じた[311][312]。, 12月にはフォークランド沖海戦が勃発し、王立海軍が勝利した。チャーチルは勝利に浮かれ、更なる大規模海戦を希望したが、ドイツ海軍はますます軍港に閉じこもってしまい、以降チャーチルの海相在任中には大規模な海戦は起こらなかった[313][314][注釈 9]。, 1914年10月には反露親独的なオスマン=トルコ帝国がドイツ側で参戦しており、1915年1月にロシア帝国軍最高司令官ニコライ大公はイギリス政府に対してトルコを圧迫してほしいと要請した[312]。閣内にはロシア軍との連携を重視する東方派とフランス軍との連携を重視する西方派の争いがあったが、このロシアからの要請を期に戦争大臣ホレイショ・キッチナーは東方派に転じた。チャーチルも東方派になり、王立海軍をダーダネルス海峡に送りこむことを閣議で主張するようになった。閣議の結果、膠着状態の西部戦線打開策としてこの作戦が承認され、海軍だけではなく陸軍兵力をガリポリ半島から上陸する作戦も決定された[316]。この作戦は1915年3月18日に英仏連合軍で実施、合計18隻の英仏艦隊でもってダーダネルス海峡沖に攻めよせ、トルコ軍要塞を砲撃で壊滅させた。ところが戦闘中に英仏軍の戦艦3隻が機雷に接触し、2隻は沈没、もう1隻も大被害を受けたため、ジョン・ド・ロベック提督はエジプトからの増援の到着するまで作戦を延期すべしとの判断を下した[317][318][319]。, 報告を受けたチャーチルは激怒し、ただちに再攻撃を行い、ダーダネルス海峡を突破し、マルマラ海にいるトルコ艦隊を撃破すべしと主張したが、ド・ロベックの判断を支持するフィッシャーらが反対し、再攻撃を要求しつつも最終判断は提督に任せるという返信を送ることとなった[318][319]。既に上陸を開始していた陸上部隊は海上からの援護なきまま戦う羽目となり、しかも一気に大軍を上陸させず、少しずつ上陸させたために、英仏海軍の攻撃から立ち直ったトルコ軍から攻撃を受けて大損害を被った[317][320]。, チャーチルは後年までこの時に迅速な行動を起こさなかったことを後悔し、「もし英国艦隊がこの時にコンスタンティノープルに砲塔を向けられていれば、トルコは戦争から脱落し、バルカン半島諸国はすべて連合国側につき、1915年までには連合軍の勝利で終わり、ロシア革命が起こる事もなかったであろう」と推測している[321][322]。, 5月半ば、もともとダーダネルス海峡での作戦に乗り気ではなかったフィッシャーが抗議の意味を込めて辞職した。チャーチルは慰留したが、拒否された。フィッシャーは保守党党首ボナー・ローに宛てて送った手紙の中で「海相が我々を破滅に導いています。あの男はドイツ人より危険です」と書いている[323]。もともとチャーチルを激しく嫌っていた保守党は開戦以来、チャーチルを「素人海相」「専門家に対抗する策士」などとこき下ろして批判してきたが、そこにこのガリポリの戦いの失態とフィッシャー辞職が来たので、チャーチル批判の機運は最高潮に達した[323]。, また保守党は膠着状態の西部戦線の弾薬不足も批判しており、その批判動議が議会で可決された。これによりアスキス内閣は総辞職を余儀なくされた[324]。しかし戦時の政治危機を危惧したアスキスやロイド・ジョージ、保守党のボナー・ローらが交渉した結果、保守党内で目の敵にされているチャーチルを海軍大臣から外すことを条件として自由党と保守党が大連立政権を樹立することで合意した[317][325][326]。チャーチルは5月17日にこれを知り、保守党党首に再考を願う手紙も書いたが、効果はなかった[325]。「貴方のように素晴らしい才能を持った人が40歳やそこらで終わるわけはないですよ」と励ましてくれた者もいたが、それに対してチャーチルは「いや、私が望んでいた事は完全に失われたのだ。それは戦争を遂行し、ドイツを負かすことだ」と語った[327]。, こうして挙国一致内閣としての第2次アスキス内閣が成立した。この政権には自由党と保守党のみならず、労働党からも戦争賛成派議員の一部が参加した[328]。労働党は開戦以来、反戦派と「ドイツ軍国主義に対する戦い」として戦争を支持する戦争賛成派に分離していた[328]。保守党前党首バルフォアがチャーチルに代わる海軍大臣に就任し、チャーチルは閑職のランカスター公領担当大臣に左遷された。ただ閣僚として戦争会議には残ることができ、チャーチルはこれが目的で閑職であっても閣僚職を引き受けた[329]。, 戦争会議はダーダネルス委員会と改称され、ダーダネルスでの作戦指導を専門とするようになった。チャーチルはダーダネルス作戦の続行を主張して受け入れられ、8月に改めてガリポリ上陸作戦が決行されたが、更なる犠牲者を出しただけに終わった。結局10月末にはガリポリ半島から撤退することが委員会で決定された。ダーダネルス作戦は25万人に及ぶ英仏軍将兵の死傷者を出しただけで何も得る物なく終わった。ダーダネルス委員会も解散することとなった。アスキス首相は少数の閣僚で構成する戦争委員会を新設したが、もはやチャーチルはそこには入れてもらえなかった[330][322][331]。閣内に留まる意味がなくなったチャーチルは11月15日をもってランカスター公領担当大臣を辞し、内閣から離れた[332][331]。, とにかく行動をしていないと済まないチャーチルは、閣僚職を辞職してまもない1915年11月19日には西部戦線に従軍しようと、フランスへ向かった。イギリス海外派遣軍総司令官ジョン・フレンチ将軍は、チャーチルに陸軍少佐の階級と、王立スコット・フュージリアーズ連隊所属の第6大隊長の地位を与えた。, チャーチルは元騎兵中尉であり、オックスフォードシャー民兵では中佐の階級を持っていた[333][334][335]。もっとも軍部内では「政治家崩れの軍人」と批判が強く、また本国議会でも保守党がチャーチルの行動を批判し、チャーチルの旅団長就任を妨害した[333][335]。, チャーチルは着任早々、部隊のシラミに宣戦布告して、その駆除キャンペーンを実施した。さらにブリキの風呂を作らせて塹壕の中での生活の改善を図り、一日に三回は塹壕の状況の確認に回った[333][335]。またなるべく早期に塹壕戦を終わらせねばならないと考え、塹壕を突破できる戦車の開発を急ぐべきと覚書の中で書いている[333]。チャーチルの副官によればチャーチルは「戦争とは笑顔で楽しみながらやるゲームである」とよく語っていたという[333][336]。, 1916年4月、チャーチルの大隊は戦死者を多く出し過ぎたため、他の大隊と合併され、チャーチルも大隊指揮官から解任された[337]。結局チャーチルは主要な会戦に参加することなく[338]、5月にロンドンに帰国することとなった[315]。, 帰国したチャーチルは新聞に投書する文筆業で生計を立てるようになった[337]。また政界では再起を狙って大連立に否定的な野党的議員と連携して政界再編を起こそうと尽力した[337]。, 1916年9月から「ダーダネルス調査委員会」が開催され、ダーダネルス作戦についての文書公開と調査が行われ、チャーチルも聴聞会に召喚された。チャーチルは自分が常に海軍の専門家から同意を得て作戦を実行したことを強調した[337]。, 同年12月にはより強力に総力戦体制を構築できる政府の樹立を求めていたロイド・ジョージが、保守党の支持も得て、「戦争委員会の再編成を行い、少数の閣僚のみで構成するようにし、その委員長は自分にすべき」と首相アスキスに要求した。アスキスは首相である自分を委員長にするよう要求したが、ロイド・ジョージは拒否し、名目上の首相になるのを嫌がったアスキスが辞職したことで、ロイド・ジョージ内閣が成立[339][340][341]した。, チャーチルは再入閣を希望し、ロイド・ジョージもチャーチルを協力してくれたが、保守党党首ボナー・ローがチャーチルの入閣に強く反対し、ロイド・ジョージも当面はそれを受け入れざるを得なかった[342][343]。チャーチルは諦めずに延々と入閣工作を進めた[338]。, 一方ロイド・ジョージ首相はダーダネルス調査委員会の報告でチャーチルの名誉が回復されるまで入閣を辛抱するようチャーチルを説得していた。この報告は1917年3月に発表され、ダーダネルス作戦の失敗の責任はチャーチル一人のせいにされるべきものではなく、アスキス元首相にも重大な責任があるとしていた[344]。, 1917年7月にチャーチルは軍需大臣としてロイド・ジョージ内閣に入閣した[343]。ただし戦争内閣(英語版)(戦争委員会)のメンバーには加えられず、必要に応じて召集され、意見を述べるだけとされた[345]。保守党やマスコミのチャーチルへの憂慮は強く、ロイド・ジョージの回顧録によると彼はチャーチルを閣僚に任命した直後の数日間は保守党に離反されて政権が潰れることも覚悟しなければならなかったという[346][343]。, この閣僚就任でチャーチルは再び議員辞職し、それに伴って行われたダンディー選挙区補欠選挙に出馬した。大連立の建前から保守党は対立候補を立てることを見送ったが、禁酒派のスクリムジャーが禁酒に加えて反戦も訴えて出馬し、労働者層の票はかなり彼に流れた。チャーチルが再選したものの、この選挙区におけるチャーチルの安泰にも陰りが見えてきた[347]。, 1917年4月にはアメリカが連合国側で参戦していた。アメリカはそれ以前から金融や物資の面で英仏を支援していたが、アメリカ参戦以降はその支援が更に増加した[348]。軍需大臣となったチャーチルはこれを全力で活用し、塹壕を突破するための新兵器「戦車」の開発を急いだ。11月のカンブレーの戦いでは400台近い戦車を投入し、その有用性を証明できた。これ以降ロイド・ジョージ首相も戦車開発の拡大を支持した[349]。戦争末期には1万台もの戦車製造計画を立てている[303]。このためチャーチルはしばしば「戦車の父」と呼ばれるようになり、彼自身もこのあだ名を好んでいた[303]。チャーチルは後に「政府が1915年の段階で戦車の有用性を理解できていれば戦争は1917年に終わらせられた」と評している[349][350]。, 1917年3月、厭戦気分が高まるロシアで帝政が打倒され、混乱のすえにウラジーミル・レーニンのソビエト政権が樹立された。11月に革命ロシアはドイツとブレスト=リトフスク条約を締結して戦争から離脱してしまった[351]。フランスでも厭戦気分が高まり、反戦ストライキなどが多発するようになったが、1917年11月にフランス首相・陸相に就任したジョルジュ・クレマンソーは反戦ストライキを徹底的に弾圧することで、戦争遂行体制を維持した[352]。ロイド・ジョージはフランスの状況が不安になり、チャーチルをフランスに派遣した[353][352]。チャーチルはクレマンソーとともに英仏両軍の前線を視察して回り、両国の結束を将兵たちに示した[354][352]。, 1918年3月からドイツ軍の最後の攻勢(1918年春季攻勢)があり、英仏軍・ドイツ軍双方に多くの犠牲者が出たが、7月頃からアメリカ軍の本格参戦でドイツ軍が劣勢となっていった[355][356]。9月終わりにはドイツ軍の実質的指導者エーリヒ・ルーデンドルフ大将も休戦を考えるようになり、ドイツ政府にアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンとの交渉を開始させた[357]。11月初めにはドイツ革命が勃発し、皇帝ヴィルヘルム2世がオランダへ亡命した[358]。11月9日から宰相になっていたドイツ社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトは休戦協定の締結を急ぎ、11月11日に連合国軍総司令官フェルディナン・フォッシュ元帥との間に講和条約を締結し、第一次世界大戦を終結させた[359][360]。, ロンドンでは11月11日午前11時に終戦を告げるビッグ・ベンの鐘が鳴らされた。この音を聞いたチャーチルは妻とともに首相官邸へ向かったが、その際に勝利に喜びかえる群衆を見た。中にはチャーチルの車の上に乗ってきた者もあったという。チャーチルはこの時の光景を「何千人という群衆が喜びのあまり走りまわっていた。ドアというドアが開き、誰もが仕事を放り出した。国旗があちこちに掲げられた。鐘が鳴り終わらぬうちにロンドンは勝ち誇る落花狼藉の街となった。世界を縛る鎖は断たれたのだ。」と書いている[361]。もっとも戦争に勝利しても、海外投資の縮小、軍需産業以外の産業の減退、アメリカと日本の台頭、ロシア革命やアイルランド民族運動の脅威などイギリスの受けた打撃・地位の低下は取り返しのつかないものがあった[362]。, ロイド・ジョージ首相はこの戦勝気分が冷めぬうちに戦時中延期され続けていた総選挙を行うことを決意した[363][364]。戦争終結翌月の12月に解散総選挙が実施され、大連立政権は「カイザーを縛り首にしよう」「ドイツ人から賠償金を取り立てよう」といったスローガンを掲げて国民の愛国心を煽る選挙戦を展開した。大連立政権支持の候補者にはロイド・ジョージと保守党党首ボナー・ローから推薦書(クーポン)が与えられた(このためクーポン選挙と呼ばれる)[365]。チャーチルは引き続きダンディー選挙区から出馬し、「反戦派、敗北主義者、臆病者」を罵りつつ、今後は国際連盟創設によって平和を維持しようと訴えた[366]。選挙の結果は大連立政権が大勝をおさめ、チャーチルも大差で再選を果たした[366]。一方「敗北主義者」とされたアスキス元首相ら自由党アスキス派、ラムゼイ・マクドナルドら労働党反戦派などクーポンをもらえなかった議員たちは惨敗した[367][366][368]。大連立の中でもとりわけ保守党が大勝し、今後の政局の主導権を握った[369][370][371]。保守党はこの大勝後もしばらく自由党のロイド・ジョージを首相のままにして大連立政権を継続するが、これは戦争直後は挙国一致を続けるべきという空気が強かったためと言われている[372]。, チャーチルは1919年1月から戦争大臣兼航空大臣(空軍大臣)に任じられた[373][303]。チャーチルが「戦争終結後に戦争大臣になってもな」と愚痴ると、保守党党首ボナー・ローから「戦時中にお前を戦争大臣に任命する変わり者はいないよ」と皮肉られたという[373]。, チャーチルの戦争大臣としての最初の仕事は動員の解除であった。兵士たちは一日も早く動員解除されて帰国することを希望していたが、後述する干渉戦争の影響もあって動員解除はゆっくりと行われ、しかも雇用者から重要労働者と認められた者から順番に動員解除するという方針をとったため、兵士たちの間に不満が高まった[367]。, 1919年1月3日、港町フォークストンでフランスに向かわされるのを嫌がった兵士3000人から4000人が乗船命令を拒否して、動員解除を求める集会を開く事件が発生した。こうした動員解除に関する運動はイギリス各地、各部隊に急速に広がっていった[367]。それでなくても長引く戦争でイギリス国内は貧困化しており、ストライキと暴動と扇動が多発し、赤旗があちこちに掲げられている状況だった。動員解除を適切に行わねば大変な事態に進展する可能性があった[303]。チャーチルは評判の悪い重要労働者から動員解除という方針を変更し、入隊が早い者から順に動員解除という反発が少ない方式に切り変えた。これによって動員解除に関する蜂起は沈静化していった[374]。, 他方、労働運動系のストライキは高まっていく一方で2月にはグラスゴーでゼネストがあり、市役所が労働者に乗っ取られ、赤旗が立てられる事件が発生した。チャーチルは軍隊と戦車を派遣してこれを鎮圧した[375]。7月に発生した炭鉱ストライキは首相ロイド・ジョージが「イギリスにもソビエト政権誕生か」と恐怖したほど拡大した[375]。この時もチャーチルはラインに駐留している4個師団を呼び戻し、ストライキ参加者を徹底的に掃討することを主張したが、この時はロイド・ジョージ首相により却下された(もし4個師団を呼び戻していたとしてもその4個師団がストライキに参加して余計に目も当てられない状況になる可能性の方が高かった)[303]。, ソビエト・ロシアに対しては大戦中の1917年末頃からイギリス、フランス、日本、アメリカなどの連合国が干渉戦争を仕掛けて、共産革命の阻止を図ろうとしていた[376]。イギリスは北ロシアに駐留する部隊を通じてアントーン・デニーキン、アレクサンドル・コルチャークら帝政派ロシア軍人から成る白軍を支援していた[377]。ロイド・ジョージ首相は反ソ干渉戦争から撤退することを希望し、アメリカのウィルソン大統領とも協力して関係主要国及びロシア各勢力を招いた講和会議を提唱したが、白軍の反対により流産となった。イギリス国内でもチャーチルや保守党がボルシェヴィキとの妥協に反対し、干渉戦争の続行を主張した[377]。, 戦争大臣チャーチルは各部隊司令官に対して兵士たちがロシア出兵可能な状況かどうかを問う秘密質問状を送ったが、各司令官とも否定的な返答をした。そのためイギリスの干渉戦争はロシア国内の反ソ勢力の支援継続以外には不可能であった[378]。ロイド・ジョージがパリ講和会議出席のためにイギリス不在の間、チャーチルはこれに全精力を注いだ[377][379]。チャーチルが白軍に行った支援は1億ポンドにも及ぶ[380][381]。さらにアメリカ大統領ウィルソンから「各国が出兵するなら干渉戦争に反対しない」との言質を取ったチャーチルは、連合国ロシア委員会を設置し、連合国各国に反ソ行動を求めた[378]。, こうしたチャーチルの反共姿勢に労働者階級や労働党、動員解除を求める軍人たちの反発は強まった[382]。労働党はチャーチルがイギリス軍撤退の無期限延期と新たな兵士を送り込むことを議会に諮る事もなく独断で白軍に約束したとして彼の逮捕を要求する決議さえ出そうとした[383]。こうした声に押されて、チャーチルも1919年秋までには英軍を撤退させざるをえなくなり[382]、1920年春までにはロシア内戦はソビエトの勝利で事実上終了した[380]。また同年7月頃にはポーランド・ソビエト戦争の戦況もソビエト有利に傾いていった。ソビエト軍によるポーランド侵攻が開始されるようになると、チャーチルはポーランド側で参戦することさえ計画したが、労働者がゼネストを起こして抵抗したため、物資支援に留まらざるを得なかった。チャーチルは軍需品をダンツィヒ経由で大量にポーランド軍に送り、ついにソビエト軍はワルシャワ攻略に失敗してロシア本国に敗走していった[384]。ロシアの赤化は阻止できなかったが、他のヨーロッパ諸国への赤化の拡大を食い止めることには成功し、チャーチルも干渉戦争に一定の成果があったと評価したようである[384]。, しかしロイド・ジョージは干渉戦争や反共闘争に否定的であり、チャーチルを植民地大臣に転任させることでこの問題から引き離し、同年3月16日にはソビエトと通商協定を締結することで世界に先駆けてソビエトの存在を容認した[382]。一方チャーチルはロイド・ジョージがドイツに苛酷すぎるヴェルサイユ条約を課したことでドイツを「反共の防波堤」にすることに失敗したと批判的に見ていた[385]。チャーチルは「ボルシェヴィキが強くならないうちに倒しておかなかったことを、いつか諸列強は後悔する時が来るだろう」と予言している[383]。, この干渉戦争以降、チャーチルは保守党から好意的な目で見られるようになっていった[386], 1921年1月にチャーチルは植民地大臣に転任した[387][381][388]。

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